巻頭言
2025年6月22日
悪を悪と見抜くイエスの愛
2000年前のギリシャではスポーツ競技が盛んに行われその殆どが今のオリンピック競技に生きているとのこと、日本にはその様な競技のルーツはなく彼我の生活史の違いに驚きます。そのような2000年前のギリシャ・ローマにおいて、使徒パウロはスポーツ競技に臨む選手のように「自分のからだを打ちたたいて」十字架の福音の伝道に命を捧げる日々でした。しかし、パウロの手紙を読む時にスポーツ競技選手に在りがちな悲惨さが殆ど感じられません。修行のような厳しさも感じられません。そこにあるのは、伝道しないわけにはいかない、という切実で純粋な熱意と喜びです。決して嫌々ながらではなく、誰かに命令されてでもなく、悲惨なほどに罪深かった自分を救って下さったイエス様の愛に突き動かされ、その御恩への回答の一つに過ぎないのです。死んでしまっていたこの私を悪の奴隷、悪の縄目から解放して下さったばかりか、そんな私を異邦人伝道に用いてくださるイエス様。その召命への返答に過ぎないのです。私も、イエス様に出逢う10年前までは全くの暗闇を歩む者、自分中心の亡者でした。しかし、神はこんな私をも光の世界、汚れなき永遠の命へと導き出してくださった・・・そのご恩返しに生きる日々です。皆様もお一人お一人それぞれがイエス様の十字架の愛によって奇跡的に救われ、これ以上ない恵みに生きておられます。それぞれの生き方・在り方によってイエス様の愛にご恩返しをしていきましょう。
牧会担当牧師 小勝琢生
巻頭言
2025年6月15日
真心からイエス・キリストは神であると信じます
新共同訳聖書や新改訳聖書の翻訳には、8章37節が抜けています。新共同訳では本文から外して末尾に記載されています。新改訳や新改訳2017では本文から削除されており、注意書きのところに小さく記載されているだけです。これは、新共同訳や新改訳などの新しい聖書の翻訳の底本として用いられた有力なギリシャ語写本には37節が載っていないことが理由です。しかし、新しい翻訳の底本となった写本とは別の同時代の他の写本には37節は記載されています。むしろ、重要な信仰告白だからこそ一部の写本には記録されたのだと思います。決して一部の写本にしか記載されていないからと言って、37節を軽視するべきではありません。
37節には「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、 宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた。」と証言されています。この37節の言葉こそが、初代教会における洗礼式の信仰告白の言葉であり、キリスト教最古の信仰告白の一つだと考えられています。有力な写本にはなくても、歴史的には、古代教会の洗礼式の信仰告白を確認出来る重要な資料なのです。この37節のみ言葉は、聖書の時代から今日のわたしたちの時代にいたるまで、変わらない信仰告白の神のみ言葉として、大切にされるべき聖書のみ言葉です。使徒言行録8章37節に証言されている通りに、真心から主イエス・キリストは救い主なる神であると信じ告白していきましょう。
主任牧師 髙木康俊
巻頭言
2025年6月8日
神の偉大なる御業を語ろう
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。約二千年前のペンテコステの日に主の御霊である聖霊が地上に降って来られて以来、聖霊降臨は継続中です。今もわたしたちが心を一つにして礼拝をおささげする時、キリスト教会が誕生した日と同じように、わたしたちは聖霊に満たされる礼拝をおささげできるのです。父なる神が主イエス・キリストを通して地上に注がれた聖霊は、今も降り注がれ続けています。聖霊降臨こそが神の偉大なる御業です。
あなたも主イエス・キリストの臨在を求め、聖霊に満たされる日々を過ごしませんか?神の偉大なる御業を語る人になりませんか?それは素晴らしい神の栄光に輝く人生です。神の偉大なる聖霊降臨の御業を共に語っていきましょう。
主任牧師 髙木康俊